昭和52年07月03日 富村家霊祭



 という感じが、今度南米末永先生が、今度南米末永先生の南米布教なんですけれども、まぁだ、行って五十日たらずというのに、とにかく白人の方が、黒人の方がそれから、南米人の方が、日系人は勿論のこと。もうとにかくお広前に、そういう人達世界中の人達がの代表が、集まってきとるような感んだと。一番最後に来た手紙がつづっておりました。これは金光教が始まって百十八年、もう前代未聞のことなんです。
 しかもこんなに開け出す。と言う事は私が教祖金光大神の御教えを、決して教祖様はうそを惜しゃってないという実証を、合楽の地にこのように現しておるように、末永先生は、私が言うておることを、「成程親先生は嘘を仰っていないな。」という事実を、南米の地に現しておる。今合楽にはそういう、いうならば信心の勢いというものが、世界に輝く、こうまぁ合楽の種が、南米の地に蒔かれたわけです。
 そこにはあらゆる人種の人達が集まってきて、うんなら教えを受けて、しかももう奇跡というより他はないようなごひれい。言葉も通じない。人情味も分からない。いうならば、南米の地で布教しておる末永先生のところのお広前で、そういうおかげを受けておる事実というのがね、私は今日の御霊様のお花の中にも込められておると思うんです。ですからそういう、うならば、金光大神は嘘を仰っていない。いうならば「親先生が、言われることは本当だった。」という事実を思うてです。
 いうならこういう悲しいことであっても、やはりそういう働きの中にあった。そういう祈りの中に起きてきたこと。どこに神様の深い、御思いというものがあるか分からないけれども、分からないけれども、そういう一分一厘間違えのない、御働きの中にあったんだと言う事。私は昨日丁度今日と同じ時間に、日田の綾部さんところのお母さんの、35年の式年祭が、もうそれこそ子供、孫ひ孫までが、みんな集まって、大変盛大にお祭りがございました。
 のに私が申しますことですけれども、いかにこの信心のというのは、あのういやとくに、合楽でいう信心というのは、もう一分一厘間違えのない働きの中に、あって起こってくることであると言う事を、例えば「天網恢恢(かいかい)疎(そ)にして漏らさず」と言った様な言葉がありますが、これはあのう良い意味ではありませんが、これを良い意味の方へ頂いてもです。
 もう神様の一分一厘間違えのない働きが、今日の昨日の言葉にね、昨日今夏期信行があっております、あの黒板に書いてあるのが、丁度私がここへ参りまして、丸十年になるんです。夏期信行が始まって。そして夏期信行の後に、ここでみんなはミニ御理解とゆっておる、その御理解を一口の御理解が、あの黒板に毎日掲示されるわけですけれども、昨日の御理解が丁度、十年かかってあの教典の全部が、二回目が丁度、今の五十一節んところなんです。
 これは丁度あのこの夏、一年のうちの夏の一ヶ月間の間だけ、以前は五十日でしたけれども、今は三十日間だけを、毎日その夏期信行だけに解いて、解いて解き明かせて頂いて今二度目が、丁度御理解半ばにきとるわけです。なら昨日の御理解がどういう御理解であったかというと、先祖の御霊祭りを、例えばすると言う事は、家の根を肥やす事だ。という御理解でした。次にはうんとにかく信心はとかく地を肥やせ。地を肥やしておけば、ひとりでにものが出来る様なものであろう。あるぞ。と仰る様に。
 日頃信心の地を肥しておけ。嫌だなぁと困ったなぁ。そう言う言が全部、自分の心を肥やす肥料だという御理解でした。だからこんな事は嫌だ。こんな事は困る。というたら折角心を肥やす心をいよいよ、豊かに大きくしていくチャンスを与えられておっても、それをむげにしてしまう様な訳なんです。なら人生の上にこういうなら例えば、肉親の者と思いもかけない時に、思いもかけない時期にこうして分かれなければならないと言った様な事柄は、まぁ人生にとっては、一番悲しいことなんだけれども。
 どこに御神意があるやら分かりません。どこに深い御神慮があるやら分からんのです。人間凡夫で分かりませんけれども、神様のそれこそ「天網恢恢、疎にして漏らさず」という、これは良い意味合いで、今度はそこを頂いて、そういう間違えのない働きの中に起こったのですから、と私共が頂く以外にはない。そしてなら今日のお祭りを、また昨日の綾部さんとこと、同じ時間にこうやってさせて頂いて、今日の御理解を頂いても、やっぱり、一脈通じるものがあるのです。
 今日は御理解何節だったかね。今日は51節。氏子の身の上に病気があったり、難儀があったりいろんな困ったことがあっては、その家業ができがたい。だからもう牛、馬のことに至るまで、あのう実意をもって願え。という御理解でした。それに対する御理解がね、親神さまなればこそ、又は氏子なればこそ願い願われる。という御理解でした。親だからこそ願われる。子供だからまたすがられるんだと。
 そういうあの願い願われる仲と言うのもがです、ならどう言う事かというと、例えば幼子が何にも分からない、無心に母親のひざにはい縋っていく。そこには母親がお乳を、また無条件で与えるように、信心例えば、牛馬のことに至るまで、人間万事のことを願っていけと。「こんなことまでお願いしてよかろうか。」と思う様な事でも願え。ただし「実意をもって願え」と御しゃっる。実意をもって願うと言う事は、まぁどう言う事かというと、「純真な心で願え」又は「無心な心で願え」と。
 私はこれが、お道の信心の要諦だと。ご利益おかげというと、なにか低級視する向きがありますけれども親なればこそ願え、子なればこそ願う。この親子の関係を持つことが分かり、悟らせて頂く時に願わずにはおられない。しかも無心に純真にいわゆる、そこを教祖は、どんなことでも願ってもいい。けれども実意を持って願えと。その実意と言う言が、どう言う事であろうかと私は、思うておったけれども、今日の御理解を頂くと、丁度赤子が母親のひざに、はいすがっていくような心。
 無心いうならば純真そのもので願う、すがるというそれも親なればこそ、子なればこそというですね。今日先生のことを本当に、いろんな事情もあってから、ちょっとあちらの方へ、まぁぜんだを勤めさせて頂きましたけれども、これはどこまでも義理があってですけれども、というてあのうそういう様子をみして下さったと言う事は、本当にここにはたいしてお参りはなかったけれども、「金光様のご信心が、どういう信心だ」という、いよいよ確信に触れたものを持っておられたと思うんです。
 私共が今申します様に純真にとか無心にとか、いうなら実意にとかと言う言が、大変実は難しい事であって、中々我情我欲がでて無心じゃない。純真じゃない。そこをお取次ぎを頂いてお詫びをしながら、お取次ぎを願うのですけれども、魂の世界に入ったらそのね無脱になる訳。心だけの世界魂だけの世界。ですから私はいうならもう、純真であり無心であり、そういう心の状態で、いうならばいよいよ合楽の御霊屋に腰を落ち着けられて、これから御霊ながらのご精進が、いよいよある事であろうと思います。
 昨日の綾部さんところの、ちょうど御理解に例えていうと、まぁ日本食しか食べきれなかった。まぁ食物でももの嫌いをする人がありますよね。だから辛いものは嫌。甘い物は嫌。といろいろありますけれども、そういう嫌と言う事は、自分の味の世界を狭めて行く事です。だから何を食べても美味しい。何でも好きで何でも食べられると言う事は、それだけ味の世界を広めることです。
 それが日本食だけしか頂けなかった私が、いうならば洋食も頂けれるようになりましたという、意味の御礼が御霊様のいうならば、御礼がそういう意味のことでした。と言う事は味の世界が広がったと。おかげを頂く世界が、まぁ広がったと言う事なんです。まぁだからこの次にはもう支那料理のような、「あんな油っこいものでも食べ習いました。」と言う様にまた、味の世界が広がって行く事でしょう。
 その様な惟は例えもの話しですけれども、そのようにしてお互いの信心の世界も、おかげの世界を広めていかなきゃならんと同時に、御霊の世界もやはり同じこと。だたし御霊の世界は私共と違って、肉がない。いうなら我情がない我欲がない。もう純真な魂。しかもその純真な魂もです、信心を知らなかった、分からなかったというのは、もう自分が精進していくすべさえ知らない御霊が、もう殆どだと言う事です。その中にあって金光大神のお取次ぎを頂いて、「金光様という神様はこういう神様だ。
 合楽の信心とはこういう信心だ。」と言った様なものに触れておられたと言う言が、これからもう純真にいわゆる無心に、お縋りをしてみえていよいよ、そういう働きを頂かれ、また現しておいでられる様なおかげに成って来るだろうとこう思います。昨日のあの御霊様のことで、お話しさせて頂きましたら、綾部さんが実はこの頃、三十年祭の五年前の時には、こういう御理解を頂きました。というのは狭い範囲の御理解。
 ところが例えば、日本食だけならば、何でも頂き習うだけではなくて、もうそれこそ洋食も頂く。味の世界が広げておる、もう本当五年たった今日このように、御霊の育つ御霊ながらのいうなら、精進お育てがあっておると言う事を、まぁ昨日から今日にかけてのね、お祭り感じさせて頂いたんですけれども、いよいよ腰を落ち着けて、合楽の御霊屋で、朝晩それこそ、合楽理念を徹底して。
 それこそ御霊ながら、合楽理念の確立を、急いでいかれることだろう。そしていよいよ御霊ながらに、いよいよ助かっておいでられることだろう。後に残らせて頂いた者の、どうでもひとつ「菊は栄える、あおいは枯れる」という、菊というのは、合楽のシンボルと言われております。ここに菊栄会というのがある。あの時にいうならば、合楽の信心の芯をなすものと頂いた。
 それで菊の花は合楽のシンボルだと言われておりますけれども、いよいよ菊が栄えて、心の中にも合楽の信心が、いよいよ心ん中に、合楽の信心でしめて行く様なおかげを頂いて、いわゆる、葵を枯らしていかなければならない。葵と言う事はさびしい。あわいかわと言う事じゃないでしょうか。しかも今日は私が見立てたあの葵は、私の目にはどう見ても向日葵にしか見えなかった。
 丁度向日葵の花の信心のようにね。もうそれこそもう楽はせん、も、富永さんが昔頂かれた御理解の中に「楽はしようと思うな。楽はさせて頂け。」と言う様な生き方の中にね、もう「楽はせんぞ」と言った様な生き方の中に、今後のいわば後の者も立ち、御霊様も助かっていかれる道が、いよいよ開かれてくると思うですね。今日は皆さんどうも有り難うございます。